same ol’ body

 これは読者のためではなく寧ろ自分の覚え書きのつもりで書いて置くのである。だが読者にも何等かの参考にならないとも限らない。自分はこの書(自我経)を訳了した時にはなんとなく仕事らしい仕事を片付けたような気がした。他の人から見たらなんでもないことかも知れないが自分だけには意味がありそうに思われたのである。
 自分は十年も前に読み始めた本をやっと今頃になって訳了したのである。翻訳の意志は元来此書を読み始めた時から萌してはいたがそれを何時始められるか、又何時終わるかはまるで見当がついていなかったし、よし訳したところで出版が果して可能であるか否かさえ勿論わからなかったのである。それにこの難解な書物を自分でよく訳了し得るかどうかということも頗る疑問であった。今、自分はそれでも「やっと片付けた」と考えると少しは嬉しいような気持にもなるのである。

 人体が一個の「小宇宙(ミクロコスモス)」であるという思想は別段珍らしい考え方ではない。禅家では芥子粒の中に須弥山[※1]さえ入っている。これは比喩だが、電子の中にひょっとしたら全宇宙が包まれているのかも知れないのだ。
 自分は少年の時分からひどく空想癖が強く勿論、妖怪変化の類が好きだった。長ずるに及んで神秘家になったところで別段不思議ではあるまい。しかし、なぜ自分がロマンチケルであるかということは説明のしようもない。
 自分は近頃では益々理論というものの如何に無価値なものであるかを痛切にかんじるようになって来た。但し、麻雀が好きだという位な意味で理論を弄ぶことの好きな人達を別段咎めようとは思わない。世に真理というような固定したもののあることを信じている人程、気の毒な人達はないと考えている。現代の多くの狂信的マテリヤリストは原始基督教徒と一向変りがない。かれ等の中には立派な殉難者が沢山にいる。

▼自分は未だにゼニの勘定がよくわからん。自慢していえば「根拠の原理」(ショーペンハウエルの哲学による)にとらわれることが少ないからだ。しかし、生きてゆくにはかなり不便なものだ。つまりゼニを一向ありがたがらんからオアシがズンズン逃げてゆく。しかしゼニはほしいものだ。
▼自分は近頃恐ろしく気持ちが楽になった。これは年齢の加減かもしれんが、一ツには「如何にして生くべきか?」について考えることをやめたからだ。つまりこの何十年かというもの、僕はそんなことばかり考えてくらして来たのだ。単に「如何にして生くべきか?」ではなく「如何にして己れを忠実に、正しく生きるべきか?」ということについてだ。散々(さんざん)パラ考えぬいた揚句、面倒になったのでダダイズムという奴を発明(しかしこれは本家がいる)したのだが、それがまた一ツの重荷になってしまった。そうして未だに僕はダダイストにされている。なんと命名されてもだが僕には一向気にならん。それからニヒリスト。